北会津村誌 -182/534page

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中新井旧御倉跡の旧館の内村役場跡
中新井旧御倉跡の旧館の内村役場跡

からその一族であり、館の旧主と関連のあったことを思わせる。現在も寺の私有地が五反歩くらいあるそうで、大門から本堂への距離などを配してみると、古くはさらに大境内を占めていたかも知れない。千葉宅の系図書にも、寺院の縁起伝承にも、嘉吉二年(一四四二)以前、その当代が千葉寺を建立、御丈一寸八分の十一面観音を安直すとある。今はどうやら千手観音で、中途交代があったらしい。寺院の本尊は大日如来、開山は隆誉で、天文中(一五三二〜一五五四)宥澄という僧が再興したということになっている。旧館跡、現在の千葉宅との境内の配置上、村の開発とも関連のある寺院で、肝煎宅の檀家寺のような形であったかも知れない。
 新編会津風土記に村西一町二十間に高さ四尺余の石仏があるとみえる。これは現在千葉寺山門側に移してあるが「南無阿弥陀仏」ときざんだ供養碑である。
 現在殆ど崩されたが、村の東南五町ほどに高さ一丈ほどの四つ壇と呼ぶものが東西に並んでいた。寛文五年の書上げにも、壇の上には二葉松四本あり、それより六十四、五年前逆修念仏庚申待のために築くとみえている。河原開墾の際、集めて盛上げた土堤、だんくら等の類が付近に多いから、判別は容易でないが、円墳の類であるかも知れないといわれていた。これが旧橋爪組下米塚との境界壇であることは、今度の調査でわかったが、ほぽ間違いなかろう。二日町・下米塚の項で詳述する。

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